失敗を恐れずにチャレンジしよう,について

はじめに

「失敗を恐れずにチャレンジしよう」とか言われる. 個人的にも, 例えば勝率 10 割ではなく, 勝率 7 割くらいで (数学用語での) 期待値を高めるほうが良いと思う. でも「失敗を恐れずにチャレンジしよう」と言われると ちょっとモヤモヤするので, モヤモヤの原因を考えている.

結局, 成功した人が賞賛されるのでは?

チャレンジした結果, 光が当たるのは成功した人である. 偉い人の苦労話を読んでも, 結局は成功したから 表に出てきているのであって, チャレンジして失敗した人の話は聞かない.

チャレンジして失敗したらどうなるの? というところがクリアにならないと, おちおちチャレンジできない.

現在進行形で失敗している人は勇気づけられるか?

「失敗を恐れずにチャレンジしよう」と言われても, 現在進行形で失敗している人の救いにはならない のではないか? 現在失敗中でゴールが見えない人に「失敗を恐れずに」と言っても, 救われるわけでは ない. 「失敗したって大したことないよ」と言われても, それは大きなお世話である.

やはり失敗は嫌である

そもそも失敗は嫌なものである. チャレンジして得られるかもしれない大きな成果よりも, 目の前の 確実だけど小さな成功のほうがいい.

「失敗を恐れずにチャレンジしよう」と言ってる人はチャレンジしているのか?

見出しで言い尽くした感があるが, 言い出しっぺはチャレンジしてる? 人のことはほっといて, 自分がチャレンジすればいいんじゃない? とか思ってしまう.

失敗中の状態を賞賛し, そこを助ける

そうは言っても実際に「失敗を恐れずにチャレンジ」してもらうためには, どうするか? 結果がどうなるか 分からない状態, 現在進行形で失敗中の状態そのものを賞賛しないと, チャレンジする人は出てこない のではないか?

評価についても, 普通の仕事で標準の評価を受けてた人は, チャレンジして失敗しても標準の評価を 保証してあげる必要がある. 「低い評価でも, うちの会社の給与水準なら食っていけるでしょ?」では ダメなのだ.

そして「失敗したって大したことないよ」という状態を作るために, 助ける仕組みを作る. 「職場の みんなで助けよう」でも良いけど, 「失敗を恐れずにチャレンジしよう」と言ってる人が支援する のが大事だと思う.

最後に

チャレンジした人をみんなで助けるということは, チャレンジした結果を個人ではなく組織で負うという ことかもしれない, と書きながら考えた.